善の研究:第三編 善:第二章 行為下
善の研究:第三編 善:第二章 行為下
これまでは心理学上より、行為とは如何なる意識現象であるかを論じたのであるが、これより行為の本たる意志の統一力なるものが何処より起るか、実在の上においてこの力は如何なる意義をもっているかの問題を論じ、哲学上意志および行為の性質を明あきらかにして置こうと思う。
或定まれる目的に由りて内より観念を統一するという意志の統一とは果して何より起るのであるか。物質の外に実在なしという科学者の見地より見れば、この力は我々の身体より起るというの外なかろう。我々の身体は動物のそれと同じく、一の体系をなせる有機体である。動物の有機体は精神の有無に関せず、神経系統の中枢において機械的に種々の秩序立ちたる運動をなすことができる。即ち反射運動、自動運動、更に複雑なる本能的動作をなすことができるのである。我々の意志も元はこれらの無意識運動より発達し来きたったもので、今でも意志が訓練せられた時にはまたこれらの無意識運動の状態に還るのであるから、つまり同一の力に基づいて起る同一種の運動であると考えるの外はない。而しかして有機体の種々の目的は凡すべて自己および自己の種属における生活の維持発展ということに帰するのであるから、我々の意志の目的も生活保存の外になかろう。ただ意志においては目的が意識せられているので、他と異なって見えるのみである。それで科学者は我々人間における種々高尚なる精神上の要求をも皆この生活の目的より説明しようとするのである。 しかし斯かく意志の本を物質力に求め、微妙幽遠なる人生の要求を単に生活欲より説明しようとするのは頗すこぶる難事である。たとい高尚なる意志の発達は同時に生活作用の隆盛を伴うものとしても、最上の目的は前者にありて後者にあるのではあるまい。後者はかえって前者の手段と考えねばならぬのであろう。しかし姑しばらくこれらの議論は後にして、もし科学者のいうように我々の意志は有機体の物質的作用より起る者とするならば、物質は如何なる能力を有するものと仮定せねばならぬであろうか。有機体の合目的運動が物質より起るというには二つの考え方がある。一つは自然を合目的なる者と見て、生物の種子においての如く、物質の中にも合目的力を潜勢的に含んでおらねばならぬとするので、一つは物質は単に機械力をのみ具するものと見て、合目的なる自然現象は凡すべて偶然に起るものとするのである。厳密なる科学者の見解はむしろ後者にあるのであるが、余はこの二つの見解が同一の考え方であって、決してその根柢までを異にせるものではないと思う。後者の見解にしてもどこかに或一定不変の現象を起す力があると仮定せねばならぬ。機械的運動を生ずるにはこれを生ずる力が物体の中に潜在すると仮定せねばならぬ。かくいいうるならば、何故に同じ理由に由りて有機体の合目的力を物体の中に潜在すると考えることができぬか。或は有機体の合目的運動の如きは、かかる力を仮定せずとも、更に簡単なる物理化学の法則に由りて説明することが出来るという者もあろう。しかしかくいえば、今日の物理化学の法則もなお一層簡単なる法則に由りて説明ができるかも知れぬ。否知識の進歩は無限であるから必ず説明されねばならぬと思う。かく考うれば真理は単に相対的である。余はむしろこの考を反対となし、分析よりも綜合に重きを置いて、合目的なる自然が個々の分立より綜合にすすみ、階段を踏んで己おのれが真意を発揮すると見るのが至当であると思う。 更に余が曩さきに述べた実在の見方に由れば、物体というのは意識現象の不変的関係に名づけた名目にすぎないので、物体が意識を生ずるのではなく、意識が物体を作るのである。最も客観的なる機械的運動という如き者も我々の論理的統一に由りて成立するので、決して意識の統一を離れたものではない。これより進んで生物の生活現象となり、更に進んで動物の意識現象となるに従って、その統一はいよいよ活溌となり多方面となり且つ深遠となるのである。意志は我々の意識の最も深き統一力であって、また実在統一力の最も深遠なる発現である。外面より見て単に機械的運動であり生活現象の過程であるものが、その内面の真意義においては意志であるのである。恰あたかも単に木であり石であると思っていたものが、その真意義においては慈悲円満なる仏像であり、勇気満々たる仁王であるが如く、いわゆる自然は意志の発現であって、我々は自己の意志を通して幽玄なる自然の真意義を捕捉することができるのである。固もとより現象を内外に分ち精神現象と物体現象とが全く異なれる現象と見做みなす時は、右の如き説は空想に止まるように思われるかも知れぬが、直接経験における具体的事実には内外の別なく、斯かくの如き考がかえって直接の事実であるのである。
右に述べし所は物体の機械的運動、有機体の合目的をもって意志と根本を一つにし作用を同じうすると見る科学者のいう所と一致するのであるが、しかしその根本とする所の者は全く正反対である。彼は物質力を以て本となし、これは意志を以て本とするのである。
この考に由れば、前に行為を分析して意志と動作の二としたのであるが、この二者の関係は原因と結果との関係ではなく、むしろ同一物の両面である。動作は意志の表現である。外より動作と見らるる者が内より見て意志であるのである。